教授,准教授,助教と研究活動

写真:学生のイルミネーション作品(西日本工業大学小波瀬キャンパス)

北九州市での出張のついでに,ひさしぶりに西日本工業大学を訪問し,実験室や研究室を案内してもらい,とてもよい時間を過ごしました。

案内してくれた先生は,西工大で実験室の再整備と強化を精力的に進めています。前任の大学でも同じような仕事をしていたので,だいぶ時間をとられるという犠牲を払いながらも,2つの大学の地盤工学分野の教育と研究に大きく貢献されています。
実験授業のことでも情報交換をしましたが,学生のしっかりとした学びにつながるような丁寧な取り組みをしていて,とてもすばらしい先生だと改めて思いました。

同行していた准教授の先生も同様の努力をしていて,授業の考え方も私たちと近いところがあるので,いくつもの点で同意したり,共感したりして,「自分たちも今のやり方でいい」と思ました。

私たちの授業は,課題や試験,成績評価が厳しいと学生は思っているだろうけど,方針は変えずに内容を充実していこう,このままがんばっていこうと思えました。

西工大訪問の帰り道に話題にあがったのが,タイトルの「教授,准教授,助教と研究活動」についてでした。

現在の教授,准教授,助教は,それぞれが単独の研究者で,准教授や助教が教授の研究を助けるという職ではない,ということになっています。

教育においては,教授と准教授の役割や資格に大きな差はありませんが,助教は講義(授業)を担当することができず,実験や演習のみ担当可で,大学院生の主指導教員になれないなど,教授と准教授に比べて制限のある位置づけになります。

一方,研究においては,教授,准教授および助教の位置づけはほぼ横並びで,それぞれの職階で同じように研究の成果が求められ,それに基づいて人事評価がなされます。

准教授(助教授)や助教(助手)は,過去のように教授に仕える必要はなく,研究室や講座の伝統的なテーマとまったく異なる研究をしてもよいし,教授の方針や志向とまったく異なる研究スタイルでもその正当性を主張することができます。
この体制では,研究費を取ってきて,准教授や助教にそれを分配して研究を進めさせて論文を書かせるという,これまで教授に求められてきた役割への要請は小さくなります(おそらく)。

つまり,研究においては立場が同等の教授,准教授および助教は,それぞれが大学内外で研究費を獲得してそれぞれがポスドクや研究員を雇って,あるいは学生指導を通じて研究を推進する,というのが基本ということです。

そうは言っても,自身のことを考えると,連携している准教授や助教には研究費の面ですこしゆとりのある状況にしておきたいと思って努力しているし,同じような考えでがんばっている教授も少なくないので,まだすっきりと移行しているとは言えない状況です。

それぞれがしっかり努力していて,ピアレビューに耐える成果を出すことに価値をおく,教授,准教授,助教がチームになって研究を推し進めれば,良い研究成果を得ることも多いと思います。旧体制の講座のようだと敬遠されそうですが,うまく機能するように気をつければ,よい面は大きいと思います。時間をかけてじっくり進められるという,予算額の大きいプロジェクト研究で作られるチームにはない利点もあり,これに学外のメンバーもチームに加わっていただければより強力に研究を進められそうです。

このようなチームでは,メンバーそれぞれが持っている武器(アイデア,技術,装置)を尊重することが重要になります。
そのデータは誰が持っている武器で誰が得たものなのかをしっかり認識して,データを録った者が得られたデータをよりどころに論文を書く権利がある,ということをチームで確認する必要があります。共同作業があったりすると,データを整理するサポートしただけでも自分のデータだと勘違いする人が現れてしまいそうです。こういったことがトラブルの元になります。
調査や試験を設計してデータを録った者は,論文執筆をほかのメンバーに依頼することができるようにしておくのも,研究の進展には有益です。その場合はもちろん,論文を書いた者が第一著者となります。
武器を提供した者または研究費を獲得した者が責任著者になりましょうか。研究費のことは謝辞に書かれるので,前者を責任著者とするほうがよいかもしれません。研究費を獲得した者は最終著者がよいでしょうか。
研究プロジェクトの本流の論文作成の場合は一部の実験を依頼することもあるから,その場合はまた考え方が変わりそうです。

共著について調べてみると「貢献度の高い順に記載する」ともあります。これまで掲載順を安易に人に譲ってきましたが,貢献度順と捉える人がいるなら,それも良くなかったかもしれません。
いずれにしても信頼できる者同士でチームを組むことが重要になりそうです。

旧講座のようなチームをつくることを強制するつもりはありませんが,現在は幸運なことにそのような連携を享受しています。

講座を分断した役人さんたちは,よい点を伸ばすことよりも弊害を解消するほうが先決と考えたのでしょう。分断してもちゃんとした人たちはよいチームを作るだろうという,ちょっとした期待もあったのかもしれません。ただ率直に言えば,職階の再定義のせいで分断状態があたりまえになってしまったと感じています。

 

最近,「教授が論文を書こうとするなんて浅ましい」と言われる場面がありました。その席では教授は私だけだったので私に向けられた言葉なのでしょう。

自らの努力で研究費を獲得して,自らの武器でデータを得て新しいことを発見したり,これまでの知見と違う何かをみつけたりできれば,教授などの職階に関係なくその歓喜を手に論文を書くのが当たり前だと思っていました。その楽しさが大学教員という重い仕事を続ける動機のひとつになっているのだけど,それをすると浅ましいとなるのか… 悲しいことです。

獲得した研究費をできるだけメンバーに配分して,分担テーマの範疇で自らデータを得て論文を書いてね,という気持ちでいるけれど,もう少し手をかしてあげる必要があるのでしょうか。
アイデアを分け与えて研究を設計して,それに基づいてデータ録りをしてもらって,それで科学的記載法の訓練をしながら論文を書かせてみる,というのは学生か独り立ちしていない研究者にすることのような気がします。

あと,「教授が自ら論文を書くなんて…」という考え方というのは,今の職階の位置づけに合わない気がします。
教育は教授と准教授が分担,研究は同列,管理運営は教授が主に担って准教授と助教がサポート(サポートしない准教授・助教も多い)。さらに人事評価の研究は,教授も准教授も助教も同じ土俵での評価。そりゃ,教授も論文書かなきゃ,っていう気持ちになります(もともと書くことは好きだし)。

職階の位置づけが変わったちょうどハザマの世代は,若い時は先輩たちのサポートを一生懸命していて,時にはゴーストライター的なこと強いられた人もいます。下の世代にはそういうことは決して強いないのだから,論文書くくらいは許してくれよと思ってしまいます。

授業や入試の準備,試験機や物品の購入や導入など,准教授の先生が支援くださるのでうちはとてもありがたい状況にあります。これで論文が書けなければ,教授としての能力が無いということですね。

冒頭の西工大の先生,学内では一人での取り組みも多くなりそうです。仕事は増えていくと思いますが,過剰な負担なく健全な状態で教育研究ができるといいなと思います。できるだけ支援したいと思える先生です。邪魔にならないように気をつけながら支援したい。

12月には論文投稿するぞ!

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